音威子府の「エコミュージアムおさしまセンターBIKKYアトリエ3モア」を訪れた。 1989年に57歳で逝去した彫刻家・砂澤ビッキが、生前アトリエとして使っていた旧筬島小学校舎。 ビッキ没後に改修しギャラリーとして公開している。
冬期閉館中の12月のこの日、トーテムポールの一部「オトイネップタワー」を屋内に、人力で運ぶという知らせが届いた。 このトーテムポールは、1980年に、ビッキが彫刻仲間数人と彫り上げた15mもの大作で、建立の際には音威子府の駅前まで大八車に載せつつ人力で運んだという。 その時の行列の写真や映像を見ると、巨大なそれを村民総出で運んでいる様に心打たれる。 風雪にさらされ腐食が進んだことで村は撤去を決め、その下部4.5メートルをエコセンター前に建立し来訪者を迎え入れていた。 今回はこのシンボリックなオトイネップタワーをゆっくりと自然に還すべく3モアの展示室「トーテムポールの木霊」に移設保管するという。しかもまた、人力で…というところに魅かれ雪道を北へ車を走らせた。 案内は13時~となっていたが、ユニックが到着した12時半頃から作業はスタートし、13時には作業の7割は済んでいる状況だった。
…にも関わらず、次々に集まってくる村の男たちは、戸惑いながらもすぐさま作業の輪に加わり、かけ声と共に呼吸(いき)を合わせ、侵食が進みもろくなった木塊を丁寧に、力強く、なんとか屋内に運び入れた。 途中、縦に割れてしまうアクシデントはあったが、村の男たちに三度(みたび)抱えられている心地はどのようなものであったか。 全身から湯気を立ち昇らせ、力を込める村の男たちは、気づけば30人を優に超えている。 自分もその末席に身を置くことが出来た…という事実。 ビッキの盟友の1人でもある河上名誉館長は、春までには修復し我々に再び立ち姿を見せてくれると約束した。 次は新緑の頃、魂のこもった木塊に再会するために、この道を北に走ることになるだろう。
冬期閉館中の12月のこの日、トーテムポールの一部「オトイネップタワー」を屋内に、人力で運ぶという知らせが届いた。 このトーテムポールは、1980年に、ビッキが彫刻仲間数人と彫り上げた15mもの大作で、建立の際には音威子府の駅前まで大八車に載せつつ人力で運んだという。 その時の行列の写真や映像を見ると、巨大なそれを村民総出で運んでいる様に心打たれる。 風雪にさらされ腐食が進んだことで村は撤去を決め、その下部4.5メートルをエコセンター前に建立し来訪者を迎え入れていた。 今回はこのシンボリックなオトイネップタワーをゆっくりと自然に還すべく3モアの展示室「トーテムポールの木霊」に移設保管するという。しかもまた、人力で…というところに魅かれ雪道を北へ車を走らせた。 案内は13時~となっていたが、ユニックが到着した12時半頃から作業はスタートし、13時には作業の7割は済んでいる状況だった。
…にも関わらず、次々に集まってくる村の男たちは、戸惑いながらもすぐさま作業の輪に加わり、かけ声と共に呼吸(いき)を合わせ、侵食が進みもろくなった木塊を丁寧に、力強く、なんとか屋内に運び入れた。 途中、縦に割れてしまうアクシデントはあったが、村の男たちに三度(みたび)抱えられている心地はどのようなものであったか。 全身から湯気を立ち昇らせ、力を込める村の男たちは、気づけば30人を優に超えている。 自分もその末席に身を置くことが出来た…という事実。 ビッキの盟友の1人でもある河上名誉館長は、春までには修復し我々に再び立ち姿を見せてくれると約束した。 次は新緑の頃、魂のこもった木塊に再会するために、この道を北に走ることになるだろう。